浄土真宗

「いのち」と「こころ」

「いのち」と「こころ」  

 「いのち」とは何だろう。これまた不思議としかいいようがない。
 私たちが「いのち」というとき、「いのち」を名詞として考えてしまう。「いのち」を持ってきてくださいと言われて、これがバラの花です、これが机ですというように、これが「いのち」ですと差し出す訳にはいかない。なぜなら「いのち」ははたらきだからである。つまり「いのち」は本来固有名詞ではなく、動詞や形容詞でしか表現できないはたらきである。
 柳澤桂子さんは優秀な生命科学者であったが、三十代前半に難病を患いそれから約三十年間、嘔吐、下痢、頭痛などに苦しめられ寝たきりの生活を強いられてきた。かろうじて中心静脈栄養の点滴で生命をとりとめていた。
 しかし、治るあてがないままあまりの苦しさに中心静脈栄養の点滴チューブをはずして欲しいと家族に訴えた。チューブをはずすことは死を意味する。長年、妻の苦悩を見てきたご主人は同意するが、隣の部屋で苦悶の声をもらす。長男は、十分に手を尽くしたとは思えないと反対する。長女の真理さんは激しく動揺し「点滴をはずさないで、そのままいて欲しい」と泣き崩れた。
 その家族の姿を見て、柳澤さんはチューブをはずすことをおもいとどまる。そして「いのちとは、その人個人のものであろうか?もしそうであるとすれば、自分で自分の死を決めていいものであろうか? ………私は自分の経験から、それは違うと思う。ひとりのいのちは、多くの人びとの中に配分されて存在している。分配されたいのちは、分配されたひとのものなのである。……いのちは自分だけのものではないということと、想像を絶する長さの歴史を持っているということが、いのちの尊いゆえんであると思う。」と述懐された。つまり「いのち」というものは、ひとりひとりが別々にもっているように思うけれどもそうではない。肉体に区切られて別々にあるように見えるが、本来はつながった一枚の「いのち」である。「いのち」とははたらきであるから肉体を越えて響き合うもの、通じあうものである。
 私たちは「いのち」を肉体に閉じ込め、その上、地位とか、名声とか、立場とかにとらわれて、「いのち」は通じ合わなくなっている。通じあわない「いのち」を生きることを人生の空過と言うのだろう。そして通じあわなくなった「いのち」は本来の姿に帰りたいと叫びをあげている。それが本願の呼びかけではないか。「一枚のいのち(無量寿)にナムして生きよ!」と。
 なお「こころ」もはたらきであるから、動詞や形容詞でしか表現できない。だから前の文章の「いのち」を「こころ」に入れ替えると「こころ」の姿が浮かび上がる。「いのち」も「こころ」も目に見えないけど、明らかにはたらきとして存在する。「大切なものは目に見えないんだよ」という『星の王子さま』のことばが思いだされる。

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