浄土真宗

宇宙への思いと十歳の旅立ち

宇宙への思いと十歳の旅立ち                 

 月の地平線のかなたの真っ暗な宇宙空間に、白い雲と青い海の輝く地球が浮かんでいます。一九六八年アポロ八号が月面を背景に撮影した写真です。その姿の何と美しく何と愛おしいことでしょう。この宇宙船地球号の上に私たちは人間として生まれ、ここで生涯を終えます。釈尊も親鸞聖人もここに誕生し、生涯を終え一如に帰っていかれました。

 地球は太陽系で唯一、進化した生物の住む惑星ですが、これは地球が太陽からちょうどよい位置にあり、適度な大きさの天体で充分な水を持っていたためであると言われています。まさにいのちの揺りかごです。

 宇宙論の中に「人間原理」というおもしろい考え方があります。
 たとえば光があるために光をみる目ができ、音があるために音を聞く耳ができたと考えるように、宇宙自身が自分を認識するために自分の目として一〇〇億年以上かけて人間をつくったという考え方です。
 人間の身体は、水を除くとほとんど炭素から出来ていますが、その炭素は恒星の核融合反応で作られます。自ら光を発する恒星は、水素をヘリウムに、さらにヘリウムから炭素を、そして窒素、酸素とつぎつぎに元素を合成する過程でえられたエネルギーで輝いているわけです。
 この時作られた炭素などの元素は、超新星爆発などで星のかけらとして宇宙空間にまき散らされ、それらが互いに衝突する過程でくっつきあい、太陽や惑星ができ生命体が誕生すると考えられています。まさしく私たちは星のかけらです。
 宇宙は一〇〇億年以上の旅路の果てにいのちある人間を誕生せしめたことになります。

 私は小さい頃から夜空の星を見上げるのが好きでした。あの頃は街の灯りも少なく、夜空をおおいつくすように星々がまたたいていて、天の川が白い雲のすじのように見えました。白い雲のように見える天の川は無数の星々の集まりで、それは私たちの銀河系の中心を眺めているからなんですね。庭に出て飽くことなく夜空を眺め、時間を忘れて芝生の上で大の字になり流れ星をさがしたりしていました。特別な悩みなどない星空が好きな少年でした。
 しかし十歳のある日、いつものように庭に出て星空を眺めていた時、「自分はこの地上からいつか消えてしまう。この星空を見れない日がくる。」ふいに何の前ぶれもなくこみ上げた思い。とめどもなく涙があふれ出しその場に立ち尽くしました。 
 それまでに感じたことのない魂の奥底をゆさぶるような哀しみと、星々のまたたく宇宙への限り無い憧れと、生きている事がただごとでないように思えた不可思議な体験でした。
 他人事のようですが、十歳の少年にこんな思いが起こった事を今でも不思議な気がします。
 この夜の体験は、私が歩んでゆく一生の方向を決定づけました。その日を境に生きて行くことがとてもつらく切なくなりました。

  『 われら何処より来たるや
    われら何者なるや
    われら何処に行くや 』

 これはボストン美術館にあるゴーギャンの晩年の大作(絵)の題ですが、私もまたこの問いを抱えて旅立たなければなりませんでした。長い放浪の旅の始まりでした。
 放浪の一時期、大学院で宇宙線や素粒子の研究をしていました。夢にまでみた憧れの仕事でしたが、十歳に抱いた生死の問題の本質的な解決にはならず途中で行き詰まり退学しました。
 しかし宇宙への思いかわらず、今でもよくハッブル宇宙望遠鏡やハワイ島マウナケア山頂のすばる望遠鏡の天体の写真に見入っています。鮮明な画像は一五〇億光年かなたの深宇宙までのドラマを見せてくれます。観測技術の飛躍的な発展によりブラックホールや宇宙の巨大構造が発見されるなど、次々と宇宙の驚くべき様相が明らかになっています。しかし謎は謎をよび宇宙の謎はますます深まるばかりです。
 現代天文学のひとつの有力な宇宙創成理論は、「無」としかいいようのない真空の〈ゆらぎ〉から突如インフレーションが始まり、ビッグバン、火の玉宇宙の晴れ上がり、さらに銀河が形成されたと主張しています。そして私たちの属するこの宇宙とは別な宇宙も存在し、無限に宇宙が生まれるる可能性も議論されています。

 宇宙はまさしく諸行無常、諸法無我の世界です。 釈尊の悟られた始まりも終わりもない「縁起の法」は私たち人間自身をふくめた全宇宙を貫く普遍の法なんですね。

 地球は太陽のまわりを三六五日でひと回りしますが、その太陽系も秒速三〇〇キロメートルのスピードで天の川銀河の中心のまわりを二億五〇〇〇万年かけてまわっていると言われています。宇宙船地球号はこの大宇宙の中を猛スピードで旅しているわけです。宇宙にはこのような銀河が一〇〇〇億個以上もあると推定されています。

 遥かに想像を絶するこのような大宇宙の一切が、色も形もない一如大法(法性法身)の顕現。

 一如法界から生まれていながら自らの我執のために故郷を見失って苦悩している人間に、一如法界から漏れたものはないことを人間に届けるために、大法は 自 然のはたらきとして、「汝、一如大法に帰れ」と呼びかけて止みません。
 如来の摂取の大悲です。
 「人間原理」にたいして「如来原理」と言えばいいのでしょうか。

 地球上での人間としてのいのちはほんの一瞬ですが、縁あって一如法界に人間として生を受けたことに感謝し、如来の摂取の大悲を南無阿弥陀仏といただきます。

  『 人身受け難し
   今すでに受く
   仏法聞き難し
   今すでに聞く 』 

      
         (「光明」二〇〇六年十月号掲載)

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