浄土真宗

生死は常に弥陀の御手の中

  生死は常に弥陀の御手の中」      
                             志慶眞 文雄 

 私は沖縄に生まれ、小さいころから夜空を見るのが好きでした。10歳のある日、満天の星空を眺めている時、突然、自分がいつかこの地上から消えてしまうという恐怖感と空しさに襲われ、どうしていいかわからず、誰か助けてくれとその場に立ちすくんだのを昨日のことのように覚えています。
 学生の頃には、「何をしてもどうせ死んでしまう」という空しい思いが心の底を占めていました。そんなある日、気づいたことがありました。「じゃあ、お前、永遠に死なないなら幸せか」と問うた時、何のために生きるのかわからないまま、つまり無意味としか思えない日々を生きつづけることは、それこそ永遠の生き地獄だと。死ぬことも空しいけれども、今を生き切れないことが自分の大きな問題点だと知りました。でも、どうしたら今を生き切れるのかわからず、悶々とした大学生活を送っていました。
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 大学院に進学し素粒子研究を始めましたが、結局、生死の問題でゆきづまり退学しました。路頭に迷っている時、友人・知人の勧めもあって広島大学医学部に入り直しました。合格発表のあったその日に、真宗の教えを聞いていた妻に勧められて細川巌先生(福岡教育大学名誉教授)の「歎異抄の会」に参加しました。
 『歎異抄』そのものはよくわかりませんでしたが、はっきりした事がありました。今までは、大学院に行けば何とかなる、医者になれば何とかなると、やるべき対象を変えることで生死の問題の解決をはかろうとしてきましたが、「対象が問題なのではなく、あなた自身が問題ではないのですか」という問いを、私は『歎異抄』から聞きました。外に向いていた目が内に向く大きな転換点でした。これが浄土真宗の教えを聞くスタートとなりました。
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 沖縄に帰って、自分の生死の問題が全然解決できてないことに思い至って、開業する時、病院の二階に聞法道場(「まなざし仏教塾」)をつくりました。非常に追い詰められた思いでしたが、開業翌年、思いもよらない出来事がありました。1992年、細川先生の教え子の関真和先生(小学校教師・56歳)が癌で亡くなる1か月前、同じく癌を患っていた細川先生に手紙を書かれました。私はこの往復書簡を読んで、私の何が問題で生死が超えられなかったのかが、初めてはっきりしました。

 「合掌 細川先生、長い間ありがとうございました。……仏法にあわせていただき、大きな世界のあることを知らせていただきました……お念仏「南無阿弥陀仏」をいただいた故に、生きることができ、お念仏いただいた故に死んでいけます。もし、お念仏におあいしていなかったら、今ごろこのベッドの上でのたうちまわっていると思います。肉体的には大変きついです。すわるのもちょっとの時間しかできないくらいです。でも、心は平安です。……最後の一呼吸までは生きるための努力を続けます。」

 「関君、いよいよ大事な時になったなあ。……南無阿弥陀仏におあいできて本当によかった。これが人生のすべてであった。私は昨年12月以来入院して、このことをいよいよ知った、君も同じだと思う。本当に良かった。……死ぬも南無阿弥陀仏 生きるも南無阿弥陀仏ただこのこと一つ ……私の方が先に浄土に行っていると思ったが、君が先かもしれぬ。しかしあともさきもない。皆、南無阿弥陀仏を生きてゆくほか道はありえない。よかった、よかった。君の人生。……」

 この往復書簡を読みながら、あふれるように涙がこぼれました。そこに見えたのは、あれが悪いこれが悪いと冷たい目で周囲を対象化し、長年、念仏を自分の思いで切り刻んできた冷酷無比な自分の正体でした。私が念仏を問うのではなく、問われるべきは私でした。私に寄り添い、常に私に「汝!」と呼びかけつづけていたのが南無阿弥陀仏でした。あふれる涙は、その呼びかけを初めて聞いた感動でした。
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 2008年、ともに仏法を聞いた謝花勝一さん(新聞記者)が、52歳で亡くなられました。16年間、癌などの大きな病気を抱え苦悶され、もうどうしていいかわからないという状況で、お連れ合いさんと一緒に訪ねて来られました。それ以来、講演会や読書会に参加され、3年たらずでしたが命がけで仏法に向き合われました。その勝一さんがこういうことを言っています。

 「仏法を学んで一番納得したことは、生死は常に弥陀の御手の中にあるということ。大きな世界から生まれて、大きな世界に帰っていくことである。……そして、摂取の大悲、煩悩即涅槃という励まし。二度の大病と病魔を抱え続ける私の苦しみと悲しみはとても和らいでいます」。

 「生死を越える」は、自分の独断と偏見の思いを固めて「越える」ことですが、「生死を超える」は、私の思いを超えた真実・法(ダルマ)によって「超える」ことです。その法によって我執を超えて見出された世界がこの言葉です。
 仏教は何かを信じ込むことでも、単に世の中でどう生きたらいいのかを教える処世術でもありません。我執を超えた真実の世界を明らかにする智慧の教えです。この迷い多き人生に、人が決して悔いることのない生き方があることを明らかにします。

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