浄土真宗

第121〜130回 案内文

『なるほど!! 仏教連続講座』の案内文  

第121回 2017年4月8日  

講題:《 歎異抄に聞く(70) 》
人間を支えているものは
 人間でないものも支えている
生命を支えているものは
 生命でないものも支えている

生を支えているものは
  死も支えている

これは私たちの置かれている世界の根源的な事実

無条件に許され
 一切は賜ったものであると思えたとき
ちっぽけな心に 
尽きることのない喜びの泉が湧き出る

第122回 2017年5月13日  

講題:《 歎異抄に聞く(71) 》
  《「死」は、私たちにとって最大のストレス》 
 他人の死を「三人称の死」、親しい人の死を「二人称の死」、自分の死を「一人称の死」といいます。「二人称の死」も大変な出来事ですが、「一人称の死」は私たちの思いをこえていて、とてもまともに認識できません。
 仏法は、私たち人間が「死」について、先天的に独断と偏見で誤解をして生きていることを明らかにします。私たちが自らの「死」にどう向き合うかは、今をどう生きるかという問題でもあります。ともに仏法を学んでみませんか。

第123回 2017年6月10日  

講題:《 歎異抄に聞く(72) 》
   法然聖人や 親鸞聖人の
   ことを思うと もうすっかり
   いうべきことはいわれていると
   私は 思い知るのだ

   いわるべきことは すでに
   いわれてしまっている
   何という 清々(すがすが)しいことだ
   私は 安心して眠るのだ

   お前などが思いも及ばぬ
   真理の深淵(しんえん)から
   語り出された その言葉を
   私達は現に聞いている

   それも すでに釈尊によって
   いわれてしまっていることだと
   思えば もう私達は この世に
   思い残すところはないのだ    (毎田 周一先生のことば)


第124回 2017年7月8日  

講題:《 歎異抄に聞く(73) 》
 この世のすべてのものは、みな縁によって現われたものであるから、もともとちがいはない。ちがいを見るのは、人々の偏見である。仏(ほとけ)はこの偏見を離れて、世の中は空に浮かぶ雲のような、また幻のようなもので、捨てるも取るもみなむなしいことであると見、心のはからいを離れる。
 人ははからいから、すべてのものに執着する。富に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。有無、善悪、正邪、すべてのものにとらわれて迷いを重ね苦しみと悩みを招く。  (『仏教聖典』より )


第125回 2017年8月12日  

講題:《 歎異抄に聞く(74) 》
 仏の身は法(ダルマ・真理)であるから、永遠の存在であってこわれることがない。智慧より成る堅固な身であるから、永遠不変である。
 この法(ダルマ・真理)が智慧の光となって現われ、この光が人をさとらせ、仏の国に生まれさせる。
 この道理をさとった者は仏の子となり、仏の教えを受持し、仏の教えを守って後の世に伝える。まことに、仏の力ほど不思議なものはない。   (『華厳経』より )


第126回 2017年9月9日  

講題:《 歎異抄に聞く(75) 》
 今回は75回目の『歎異抄(たんにしょう)』講話です。いよいよ最後の章(後序(ごじょ))に入ります。
 後序には、「善信(ぜんしん)(親鸞(しんらん))が信心(しんじん)も、聖人(法然(ほうねん))の御(ご)信心(しんじん)もひとつなり」「弥陀(みだ)の五劫(ごこう)思惟(しゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」「善悪(ぜんあく)のふたつ総(そう)じてもって存知(ぞんじ)せざるなり。〜ただ念仏のみぞまことにておわします」など、よく知られた大切なお言葉が沢山あります。大事に頂いていきたいと思います。


第127回 2017年10月14日  

講題:《 歎異抄に聞く(76) 》
(問)仏教とは、何ですか?
(答)仏教とは、仏(ブツ)の教えであり、仏になる教えです。仏とは、インドの古いことば Buddha(ブッダ)の音写仏陀(ブッダ)の略です。仏陀とは目覚めたひと(覚者(かくしゃ))という意味ですから、仏教とは目覚めたひとの教えであり、目覚めたひとになる教えです。
(問)何に目覚めるのですか?
(答)釈尊(目覚めたひと)の教えによって、自己への目覚めと、真理(法・ダルマ)への目覚めがおこります。
 仏教とは、その目覚めが、人生の迷いを超えさせるという大切な教えです。


第128回 2017年11月11日  

講題:《 歎異抄に聞く(77) 》
 人生に起こる諸々(もろもろ)の問題(生まれること、生きること、死ぬことなど)は、私たちの思いの範囲を超えています。私の問題でありながら、私の思いだけでは解決できないのはそのためです。
 人間は人間の思いを超えたはたらきによって支えられ生かされているのです。その人間の思いを超えたはたらきに2500年前、はじめて目覚めた人がおりました。その人が仏陀(ぶっだ)(目覚めたひと)と人々から尊敬され慕われた釈尊でした。その目覚めは、法(ダルマ)として説かれ、今日まで多くの人々を導いてきました。


第129回 2017年12月9日  

講題:《 歎異抄に聞く(78) 》
 仏教の眼目(がんもく)は、「生死(しょうじ)を超(こ)える」ということです。 仏法(ダルマ)は、仏の世界・真実の世界を説き、分別(ふんべつ)で苦悩している人々をその真実のいのちの領域に目覚めさせます。しかしながら、計らい・分別でしか生活してない私たちにとって、計らい・分別を超えた仏の世界を感得し、「生死を超える」ということは至難です。いのちがけの聞法・求道が求められるゆえんです。
 今回が、「まなざし聞法道場」での今年最後の仏教連続講座となりました。この一年間、各地から沢山の方々が参加されました。生死を超える道に出合えたことに感謝し、共に来年もこの求道の歩みを継続したいものです。


第130回 2018年1月13日  

講題:《 歎異抄に聞く(79) 》
  本来のありようから逸脱しているため

  自分で自分を受け取れない

  「いま、ここ」を生ききれない

    それを人生の空過という
  今のいのちを未来への期待で浪費し

  今のいのちを過去への後悔でいじめ殺す

    それを内なる殺生という
  人生の空過の内実は 今のいのちの殺生

  この悲惨きわまりない私を必ず救済すると

    法蔵菩薩は誓われた

  その誓いの真実に触れることがなかったら

  私は内なる殺生をしつづけて

  空しい一生を終えたであろう


関連項目  

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