浄土真宗

第131〜140回 案内文

『なるほど!! 仏教連続講座』の案内文  

第131回 2018年2月10日  

講題:《 歎異抄に聞く(80) 》
仏教とは何か
  私が立つ大地と

  その大地に立つ私を

  明らかにする教えである

  これは人生の一大事である

  われわれは目があればものが見えると思う

  しかし目があっても光がなければものは見えない
  光とは智慧である

  智慧の光は

  無始以来の私の闇を一瞬にして照らしだし

  私が立つべき広い天地を恵む

  仏教とは
 私を照らす智慧の教えである


第132回 2018年3月10日  

講題:《 歎異抄に聞く(81) 》
《 浅原才市のうた 》 
  わたしや 臨終すんで 葬式すんで
  みやこ(浄土)にこころ住ませてもろうて
  なむあみだぶと浮世にをるよ。

  才市や何がおもしろい
  迷いの浮世がおもしろい

  法をよろこぶ種となる
  なむあみだぶの花ざかり。

  心も邪見 身も邪慳
  角をはやすが これが わたくし
  あさましや あさましや
  なむあみだぶつ なむあみだぶつ。

第133回 2018年4月14日  

講題:《 歎異抄に聞く(82) 》
 自分の死(「一人称の死」)を見るのは、裸眼で太陽を見る様なものだと言う喩えがありますが、それは、自分の死(「一人称の死」)を自我の煩悩の眼(まなこ)で見ようとるから不可能なのです。
 自分の死(「一人称の死」)を見るという、不可能としか思えないことが成立するのが信心です。信心とは、如来の眼で自分の死(「一人称の死」)が見れるということです。「阿弥陀のいのち」に目が見開かれるから、「生死する自我の命」を捨てることが可能です。「阿弥陀のいのち」を生きる人生が開かれるということです。
 親鸞聖人の「雑行を棄てて本願に帰す」とは、「生死する自我の命を棄てて阿弥陀のいのちに帰す」ということです。

第134回 2018年5月12日  

講題:《 歎異抄に聞く(83) 》
 仏教は何かを信じ込むことでも、単に世の中をどう生きたらいいのかを教える処世術(しょせいじゅつ)でもありません。
 仏教は我執(がしゅう)を超えた真実の世界を明らかにする智慧(ちえ)の教えです。
 どの人にも必ず死がおとずれます。その事実とどう向き合えばいいのでしょうか。智慧の教えによって、〈永遠のいのち〉の通ったわがいのちであると知らされた時、私たちはひとりぼっちの孤独から救われます。仏教はこの迷い多き人生に、人が決して悔いることのない生き方があることを明らかにします。

第135回 2018年6月9日  

講題:《 歎異抄に聞く(84) 》

  ひとはなぜ苦しむのでしょう・・・
  ほんとうは  野の花のように
  わたしたちも生きられるのです (柳澤 桂子)

 「私たちも野の花のように生きたい!」
 しかし私たちの毎日は苦悩の連続で、野の花のようには生きれません。私たちは命に、人に、物に激しく執着し、思い通りにならないことに苦しみます。貪(むさぼ)り、瞋(いかり)で疲労困憊して一日を終ります。それが人生であるならばこんなつらく悲しいことはありません。
 釈尊は、煩悩の心の人間が、野の花のように生きていける世界を「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」と2500年前にあきらかにしました。

第136回 2018年7月14日  

講題:《 歎異抄に聞く(85) 》
 老・病・死に苦悩した釈尊は、29才のとき国と地位と財をすてて出家し、35才のとき明けの明星が東の空にまたたく早朝、「ダルマ(法)が至り届いた、不死が得られた」と大悟しました。この大宇宙の一切のものは因と縁によって生じているという真理(縁起の法)を発見し、苦を超えて「今、ここ」を生きれる人生がどうしたら開かれるかを多くの人々に説いて、80年の生涯を終えました。
     釈尊よ
     あなたが深い苦悩を超える道を求めて
     独りで旅立たれることがなかったならば  
     私は光りなき暗やみの世界で
     一生を終っていただろう
     あなたを思うと胸があつくなる

第137回 2018年8月4日  

開催日変更!!!  今回は、第2土曜日が公休日なので第1土曜日に変更しています。
講題:《 歎異抄に聞く(86) 》
 地震、津波、台風、洪水などが各地でおこっています。これは自然災害ですが、私たちの心身も災害に見舞われっぱなしです。老いと病に不安を抱き、死の暗い影におびえ、愛するものとの別れに苦悩し、恨みや憎しみのなかで心身を焼かれ、不安で眠れない夜を幾たびも過ごさなければなりません。この娑婆世界を生き抜く事は、容易ならざる事です。
 
 しかし仏教は、その苦悩をこえていく大道を明らかにします。この大切な教えに耳を傾けてみませんか。

第138回 2018年9月8日  

講題:《 歎異抄に聞く(87) 》
 世界の人口は現在、推定で76億人ですが、2100年には112億人に達すると予測されています。しかし76億の人口が112億になっても地球の重さ(質量)は変わりません。なぜなら地球上のものが人間となりそしてまた地球に帰るだけですから。広くは宇宙に誕生し宇宙に帰るということですが、仏教はそのことを一如から誕生し一如に帰ると教えます。
 ただその人間をふくめた存在の有り様には法則(ダルマ)があります。それをブッダが2500年前に発見しました。私たちの生きていくこと死んでいくことの苦悩はその法則を知らないがためだと教えています。きっと仏教との出会いが、あなたに人生への新しい視点を開くはずです。

第139回 2018年10月13日  

講題:《 歎異抄に聞く(88) 》
 以前、皇居のお堀の「鴨(かも)」が、弓矢で射られた姿がテレビで報道されました。そのニュースを見ていた人が、「ひどい事をする奴がいる、許せん。」と非難の声をあげました。しかしその時、その人が食べていたのが鴨肉(鴨鍋)でした。
 もちろん、鴨を弓矢で射るのは残酷で許せません。一方で、鴨鍋は感謝して食べるから許されると私たちは自己弁護しています。しかし、鴨の立場からすればどちらも災難で、殺されて鍋にして食べられる方がより残酷かも知れません。「しかたがないじゃないか」という声が聞こえてきそうです。
 仏法は、私たちが人間中心主義の狭い檻の中で生活していることに気づかしめ、その限界を超えていく真実の道をあきらかにします。

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