浄土真宗

第31〜40回 案内文

『なるほど!! 仏教連続講座』の案内文  

第31回 2009年7月  

 「人々の憂い、悲しみ、苦しみ、もだえは、どうしておこるのか。 
 それは、人に執着があるからである。富に執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自分自身に執着する。この執着から苦しみ悩みが生まれる。すべての人々は、常によこしまな思いをおこして、愚かさのために正しく見ることができなく、自我にとらわれて間違った行いをし、その結果、迷いの身を生ずる。
 だから、結局のところ、憂いと悲しみと苦しみと悩みのある迷いの世界を生み出すのは、この心である。
 執着を離れさえすれば、すべての悩み苦しみはあとかたもなく消えうせる。(『華厳経』)」と仏教は説く。
 言うのはやさしいが、行うのは困難な道である。
 その苦悩の歩みの中から親鸞は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずの事みなもてそらごとたわごとまことあること無きに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と、自力でなく、如来より賜る他力の念仏のみが困難を超える唯一の道であることをうなずかれた。 


第32回 2009年8月  

 老い、病、死が押し寄せ、当てにならない社会の中で何か満たされない思いのままに一日一日が空しく過ぎてゆく。気持ちのもちようを変えれば何とかなるのか。社会が悪いから不安なのか。しかし、そんな生易しいものではないと仏法は教える。空しい日暮らしの根底には人間の深い闇が横たわっている。不安は、自分を生かしている命の根源を見失っているからだと。

仏教講演会
 名古屋から鶴田先生はじめ10名の御同朋の方々がこられます。お忙しい時間をさいて、鶴田先生に沖縄での講演をお願いしました。多くの方が足を運んで下さる事を願っています。

 日時:8月 8 日(土)
 場所:しげま小児科医院2階 

    午後 3:00〜午後 4:00
       講師:志慶眞 文雄(医師)

    午後 4:00〜午後 5:00
       講師:鶴田 義光 (養護学校教諭)


第33回 2009年10月  

 私たちは “生” に執着し “死” を忌み嫌います。“生は有” “死は無” と生・死を分け、死んだらすべてが無くなると考えます。
 しかし、仏法では「生死一如」(生と死はひとつのもの)、「生のみがわれらにあらず、死もまたわれらなり」(清沢満之)といい、「有無の邪見」(有と無を分けてみる間違った見方)を破った正しいものの見方こそが生死を超えさせることを教えます。
 小山一行先生の『高僧和讃に聞く』という書物には、
「曹洞宗の禅僧である内山興正老師は【生死】と題する詩の中で、
 手桶に水を汲むことによって/水が生じたのではない
 天地一杯の水が/手桶に汲みとられたのだ
 手桶の水を/大地にまいてしまったからといって
 水が無くなったのではない
 天地一杯の水が/天地一杯の中にばらまかれたのだ
と述べ、生死を超えたいのちに目覚める智慧を得ることこそが仏道であると示されています。」とあります。
 いのちのことをご一緒に考えてみませんか。


第34回 2009年11月  

生まれるということの不思議
生きているということの不思議
死ぬということの不思議
    
釈尊は、その不思議に耳を澄まし心を集中し
生死を貫く
大宇宙の真理(ダルマ)に目を見開いた
それは今から 2500年前
あけの明星がまたたく夜明け前の出来事でした

一切は因となり縁となり
つながり合って重々無尽の
ただ事でない世界を織りなし
生きとし生けるものにはたらきかけ、呼びかける
仏法不思議

現に今、私達は
その不思議なはたらきに生かされ
そのダルマの呼び声を南無阿弥陀仏といただく


第35回 2009年12月  

早いもので師走ですね。

 この仏教講座も35回目です。延べにするともう千名以上の方が足を運んで下さいました。沖縄の地で、このように沢山の方が参加されるとは思いもよらないことでした。

  “生ききれない、死にきれない” 苦悩の人生のなかに、“生も死も平等に見れる視点” が開かれることを願って話し続けてきました。

 貴重な土曜日の午後、わざわざお出で下さるにはひとりひとりにそれなりの動機がないと、なかなか足が向かないものです。話を聞いて下さる方が居られるという事は、責任を感じるとともに大きな励みになります。
 人間の自己中心的な思いを超えて、人生を見る視点を仏法は恵みます。お待ちしています。

第36回 2010年1月  

 新年明けましておめでとうございます。

 世間は政権交代、世界同時不況、就職難など目まぐるしく変わりました。これからどうなるのだろうという不安が漂っています。この世相にどう向き合えばいいのでしょうか。
 親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもて、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』)と言われました。
 自らの欲望の作り出した妄念妄想の世界を世間と言います。自分の都合で世間に流されたり、絶望して背を向けたり、過大に期待して裏切られたりして不安の中を生きている私たちに、仏教は、世間を超えたまことの世界(浄土)を明らかにし、その浄土を自らが生きていく立脚地とし、世間の中で自分の分を尽くして生きていく道を開きます。

第37回 2010年2月  

 私たちの苦悩の原因は間違った世界観にあります。
 私たちは、自分が見ている世界を客観的でこれこそが現実の世界だと思っています。

 「それは本当ですか?」
 「違うんじゃないですか?」

 仏教は、これまでの物の見方が何の根拠もない単なる自分の思い込みで自らの作り出した妄念妄想の世界を、現実の世界と勘違いして生きていることに気づかせ、私たちを目覚めさせる教えです。
 思い込みの世界を超えたあるがままの世界こそが、私たちを無条件で生かしめている真実の世界です。そのことに気づいたとき、私たちのうえに感謝して生き生きと生きていける日々、悔いなき人生が開かれます。


第38回 2010年4月  

 仏教は単なる人間の生き方の問題ではなく、人間を含めた全宇宙を問題にした教えです。人間が考えた発明ではなく、真理(法)の発見です。
 全宇宙のあるがままを如(にょ)といい、如は法(ダルマ)となり根源的な働きをもちます。
 私たち人間も如より誕生しながら、この娑婆に自我(Ego)をもって誕生した瞬間から如を見失います。如はつながり合った大いなるいのち(無量寿)ですが、自我はその大いなるいのちを切って私の命と私物化します。私物化したいのちでは私たちは生ききれません。それが私たちの苦悩の始まりです。その苦悩している私たちに、如は智慧となり「汝大いなるいのちに目覚めよ」と呼びかけています。その呼びかけに、心からうなずくとき、苦悩する私たちは、如来の大きな慈悲につつまれます。これを「他力の信心」といいます。


第39回 2010年5月  

 仏教の経典に善悪のことを説いた経典があります。

  すべてのものが本来的に平等であることに
  順(じゅん)ずるを善といい、
  すべてのものが本来的に平等であることに
  背(そむ)くを悪という

 善悪の定義としては一番、妥当性があるような気がします。すべてのものは本来的に平等ですが、私たちはそれに反して自分だけを立てて生きています。それがエゴの正体です。すべてのものを本来的に平等として扱って生きている人がどこにいるのでしょうか。人間のどこに善があるのでしょうか。
 「すべてのものは本来的に平等である」ことへの目覚めが、それに背いて生きている人間存在を「絶対悪」と自覚せしめます。それが「如来の眼(まなこ)」にうつる人間存在です。


第40回 2010年6月  

 どの人にも必ず死がおとずれます。その事実とどう向き合えばいいのでしょう。地位も名誉も健康も当てになりません。それはないよりあったほうがいいでしょう。しかし人間はないよりあったほうがいいという相対的なものでは生死は超えられません。最後は、残念無念と空しく終わる以外にありません。
 人間は是非ともなければならないものでしか生死は超えられません。つまり、死んでもなおかつ空しくないといえる根源的世界への目覚め、生と死を貫く絶対的真実への確かなうなずきがなければ生死の苦しみを超えられないのです。
 金子大栄先生は言われました。「いつ死んでもよし、いつまで生きてもよし」


関連項目  


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